むかし・いま・これから

青梅テキスタイルの歴史〜これからの青梅

759年 万葉集にも読まれた多摩川の情景

多摩川の情景
”多摩川に晒す手作りさらさらに 何ぞこの児のここだかなしき” 万葉集大十四東歌 
(訳:多摩川にさらさらと晒して仕上げる手織り布のように、さらにさらにこの娘がかわいくてたまらない。)

万葉集に多摩川の情景が詠まれている。男の歌とされるが、多摩川に布を晒しながら女性たちがうたった作業歌であるという解釈もある。初夏の多摩川で、はしゃいでいる女性たちの姿が浮かぶ。
701年「大宝律令」が発令され、祖・庸・調の税制度ができた。調は現物納付で織物のことを指すことが多く、青梅をはじめ「調布」という名が残る場所は税として納める布の生産が盛んだった地域が多い。

799年

インド人が綿花の種子をもって三河国(愛知県)に漂着。しかし気候風土に合わず、一年で絶滅。

1150年

青梅で自給自足の絹織物生産開始。

1192年

青梅地方が織物の主要産地となる

1441年

青梅縞市が開かれるようになった(という説がある)

1521年

武蔵国に綿の種子が伝わる

1598年

綿、たばこの栽培が初めて記録される(青梅市駒木町)

260年もの長い間戦火に見舞われなかった江戸時代。鎖国中も出島を通して海外の様々な文化を取り入れ、一大文化を花咲かせた

江戸中期 青梅が宿場町として栄える

江戸城の築城のために、青梅の良質な木材、石灰を運搬する道路として「青梅街道」が敷設。甲州裏街道ともよばれ、青梅と奥多摩、甲府盆地をつなぐ近道として多くの旅人が訪れた。江戸中期には御嶽山などの信仰が盛んになり、参拝者や行者、旅芸人、行商人が往来し、宿場町としての性格を深めたといわれている。定期的に市が開かれるようになり、織物の売買も行われた。

1661年

川越では江戸後期にイギリスから輸入された綿の紡績糸を使って「桟留縞」を模して「川越唐桟」という模織を行った

1661年 青梅桟留(サントメ)縞の生産開始

青梅桟留(サントメ)縞の生産開始
「わたしゃいつでも酒さえ飲めば青梅桟留着た心地」という里歌によって知られる。素木綿で、多くは紺地に赤茶系の経縞に織られたもの。青梅の桟留縞はインド東岸のサント・トーマス港(サントメ)から輸入された「桟留縞」が原型。奥嶋唐桟ともいう。「桟留縞」はインド綿の細い手紡糸を用い、表面は滑らかで光沢があり、絹に似ている。色調は紺、浅黄、茶のほかに赤や黄の細い立縞が主であったが、カツオ柄やゴマ柄など多くの柄物もあった。輸入量が増えるにしたがい、階級を超えて愛されるようになり、青梅や川越のように、模して織る地域ができた。

青梅桟留(サントメ)縞の生産開始

1661年 江戸に開いた藍の華・青梅縞
(江戸初期 - 明治)

青梅縞
この頃より、「青梅縞」が著名となる。青梅村を中心とした近郊在住の女性によっておられ、青梅の市で売買されたことから「青梅縞」と呼ばれた着尺地。「嶋」とも「縞」ともいわれるが、経糸に絹と綿、緯糸に綿が使われたしま模様の着物のことで、インドの「サントメ」縞を模した織物の一つと言われている。絹糸を用いることで、インド綿と同じように美しい色に染め、糸の細さや光沢で繊細な手触りを再現しようとした。それまで麻しか身にまとうことが許されなかった庶民にとって、温かくやわらかい青梅縞は素材革命として爆発的に流行し、国内各地はもちろん中国や韓国まで輸出された。

1668年 様々な青梅織物の誕生 [1]
「斎藤縞」

「斎藤縞」の生産開始。西多摩郡の大字羽村の一部で織りだした、紺や浅葱を経とし、大縞に織った夜具、布団用の生地。(~1736)

1732年 桐生で西陣の高機を導入、高級絹織物の生産開始

1789年 様々な青梅織物の誕生 [2]
「成木紬」

「成木紬」生産開始。青梅織物の一つで、下成木で織られたもの。糸入結城とも言われていた。この頃には地元で栽培した綿で糸をつむいで織ったが次第に綿糸が不足し、常陸国産の糸を取り寄せて使われた。

英国で綿糸紡績機械ができる。当時、伊、仏は製糸機械が、英、米、独には織機があった。

1848年 高機の導入

この地方でも従来の1反掛けの地機(じばた)から、4~6反掛けの高機が導入され、生産能力が向上する。地機、高機を使い、絹織物、絹綿交織、綿織物など多様な織物が織りだされた。

青高機の導入

1861年 様々な青梅織物の誕生 [3]
「唐桟双子」

1861年から、木綿縞の「唐桟双子」が織りだされ「青梅産地」「青梅桟留」とともに明治12年頃まで名声が続く。「青梅綿」という名称は江戸時代末期に青梅の綿打職人が、新しい製綿方法を開発し、着物一着分の綿を紙に包んで売り出したのがこの名称で、現在もその名が残っている。

1861年 様々な青梅織物の誕生 [4]
「縮しらら」

大字大柳の里人が織った青梅縞をもって、市場へ行く途中、誤って泥の中に落としてしまった。多摩川の流れですすぎ、日に晒したところ、絹糸が縮んで一種の柄ものになったことで生まれたという。

1861年 様々な青梅織物の誕生 [5]
「チャンカラ縞」

「綿八丈」と「ノゲ縞」は、筬(おさ)の音拍子から俗に「チャンカラ縞」と呼ばれた。どちらも素木綿で、綿八丈は最も粗物で長淵で織られた。ノゲ縞は地はこげ茶色で白絹糸と木綿糸を撚り合わせて織ったもので、小曽木で織られていた。

1872年 青梅夜具地の前身となる織物の生産開始

双子縞、紅梅縞、黄八格子(のちの青梅夜具地となる)など、新たな織物がこの頃から織られ始める。

1877年 西南戦争勃発(明治10年)

1878年 服装の洋装化が進む。安価な輸入綿布が普及する。

1878年 青梅縞の絶頂期

"青梅縞の取引の絶頂期は明治11年から12年である。青梅縞は八王子・埼玉でも産出されたが、個人売買を許さずに毎月の青梅縞市でのみ交易された。
青梅縞の藍色※は明治の初めに来日した英国の科学者アトキンソンにより「ジャパンブルー」と命名されるなど、青梅縞をはじめ、暖簾や着物など藍に染められた綿織物は下町文化を代表する存在であった。当時の庶民文学には「青梅縞」「青梅桟留」などの言葉が随所にみられ、江戸庶民の憧れの着物であったことが伺える。

※綿を染められる植物染料が少ない中で、藍はもっとも適していた。綿が堅牢に染まり糸が丈夫になり、夏涼しく、冬暖かくなる。さらに、抗菌、防虫効果がある。"

1880年

ドイツのバイエルがインド藍をもとに藍色染料の化学合成に成功。インディゴと命名する。

インドからイギリスの時代へ
産業革命によって紡績機を開発した英国はインドから高級なインド綿でなく、安い綿花を輸入し、自国で質のよい糸を紡ぐようになる。一方インドはインド綿の需要が減り経済的に悪化の一路をたどる。

国内棉作の衰退
明治20年頃から徐々に良質で安い綿が日本にも輸入され国内の棉作は衰退していく。

明治中期以降 青梅縞の衰退

明治中期以降、安い輸入染料(インディゴ)の利用など粗製乱造に走ったため青梅縞の信用が下落し、「青梅縞一切取扱不申」と織物問屋に札が掲げられ急速に衰退した。

服装の洋装化が進む
安価な輸入綿布が普及する

1887年 西多摩郡織物組合の設立

当時青梅の織物業に携わっていた人々は粗悪品を出したことで全国から信用を失った青梅縞の二の舞を避けようと、新しいタイプの織物生産を開始する。着物として好まれた青梅縞から、夜具や夜着へ移行。「かい巻」という綿をうすくいれた夜着や「どてら」「半纏」など。素材は綿のほかに人絹、スフ、絹など様々使用した。

かい巻

1905年 青梅織物同業組合設立

青梅縞の反省から、青梅織物同業組合を結成。組織的に質の管理や販売を行うことを目指し、組合員75名から始まった。従来の着尺から、夜具地という木綿の布団の側生地(布団をつつむ布のこと)の生産に大きく転換を行った。

1908年 豊田佐吉、初の国産力織機完成(明治23年)

1909年 鉄製の織機への転換

青梅に初めて豊田式力織機導入。生産能力の向上とコスト低減が図られる。木製から鉄製の織機へ転換が進む。

鉄製の織機への転換

1914年 第一次世界大戦勃発(大正3年-13年)

1923年 関東大震災(大正12年)

1926年 青梅夜具地 生産開始
庶民家庭の必需品となる (大正末期 - 平成)

青梅夜具地の柄

八王子や埼玉が青梅縞から絹織物へ生産を切り替えたのに対し、青梅は綿織物である夜具地の生産を組織的に開始した。
織元の管理のもと、賃機が農業と兼業で織り、買継商がデパートの売り場に行って商品の売れ行きをみて営業。青梅織物同業組合が展示会、品評会を開き、品質の向上を図って販路を広げた。結果として市の形態は自然消滅したが、全国に青梅夜具地は広まった。
木綿織物の安価な夜具地は庶民にとって求めやすく、暮らしの必需品となった。明治後半から昭和30年頃までは縞夜具地が盛んにおられたが、その柄は時代や技術の向上を反映し、縞からチェック柄、壺柄や花模様など移り変わっていった。

織元(おりもと):機屋糸の購入からデザイン、織の行程管理
賃機(ちんばた):農業と兼業で織をする人
買継商(かいつぎしょう):織りあがった織物を集荷し、問屋に卸、注文を受け、織元や機屋の製品を管理販売。

青梅夜具地の広告

1931年 青梅織物工業協同組合設立
庶民家庭の必需品となる (大正末期 - 平成)

豊田式綿用力織機の導入が増え、木綿夜具地を中心に一大織物生産地となった青梅は、青梅市の西分町に青梅織物工業協同組合を設立。翌年からテーブルクロス、ナフキン、ギンガム、サロン等の輸出物の織物生産が開始された。

組合の敷地には、織物のまちの繁栄を示すような意匠が残る会館建築や、大正末期に青梅駅前に建設された大谷石づくりの建築物の移設利用(発券倉庫)、都立繊維試験工場の移設利用が特徴的である。昭和11年には鋸屋根が特徴の織物加工工場が建設され、多くの女工さんが働いていたといわれている。

青梅織物工業協同組合設立
青梅織物工業協同組合設立

1939年 第二次世界大戦勃発(昭和14年-20年)

1940年 戦争による生産力低下

日、独、伊の三国同盟が締結されて綿、スフが配給統制となるなど戦争色が強まる。その後、1942年には青梅産地の全織機の半数が稼働を停止する。

「国民生活必需品の生産促進」のために我が国に綿か18万トンが輸入される。

1945年 織布工場再開

太平洋戦争終結により、工場再開。

1947年 ガチャマン景気
(昭和22年 - 昭和32年)

ガチャマン景気の工場ガチャマン景気の工場

戦争特需や戦後復興とも重なった昭和22年から32年は織機の設備制限も撤廃され、青梅夜具地の全盛期となる。織機がガチャと音がすれば萬(お金)が入る「ガチャ萬時代」ともいわれる。
青梅夜具地は、全国の夜具地シェアの6割を占め、エリアでいうと全国の9割程度と、青梅夜具地は昭和の中期には全国の家庭で使われていた。また集団就職で東北や沖縄などから若者が流入したことで、青梅のまちは発展し、このころ映画館、ボーリング場、スケート場、習い事教室など、若者向けの施設整備や催しが行われた。旦那衆は芸者をあげ、街は活気に満ちていた。

”当時は、多摩川も小さな川も水は染色の色に染まり橙色や緑など毎日違う色だった”
―――(「青梅織物 青梅縞から青梅夜具地へ」より)

1950年 朝鮮戦争勃発(昭和25年)

1951年 夜具地以外の道の模索(昭和26年-)

ガチャ萬景気で盛り上がる一方、青梅の一部の企業は夜具地以外の道の模索を始め、昭和26年から婦人洋服地の生産に着手。百貨店などお抱えのテキスタイルデザイナーがデザインのパターン図を作って、それを青梅で織った。過去に培った複雑な染めと織りの技術を応用した贅沢に手間をかけた製品が多く、現代では生産できないものも多い。

ガ夜具地以外の道の模索

1956年

「繊維設備臨時措置法」が制定され、織機設備の削減が決定される

1959年 織機の買い上げが始まる

国による織機の買い上げが始まり、昭和34年から45年頃まで、当時5万円から8万円くらいで織機を買い上げていった。多くの機屋が壊されていく織機をみて辛い思いをした時代でもある。

◆新繊維の実用化
ナイロン、ポリエステル、アクリルなど多種多様な素材が市場に出る

◆生活の洋風化
洋かけふとん、マットレス、更紗ふとんが普及

1960年代 和から洋への転換
織物産業の衰退

昭和35年~40年、高度成長・東京オリンピックを契機に和から洋へ生活スタイルが大きく転換した日本。夜具地もプリント柄で広幅の生地への転換が図られたが、生活の変化が激しく織物産業や木材の産業は急速に衰退の道を進み、多くの鋸工場が電子機器やハイテク産業へ転用されるようになった。
織物企業が少なくなっていく中、新たな需要の開発を目指し昭和34年(1959年)にタオル織機の割当120台を経済通産省より関東地区で確保し、昭和38年(1963年)より、青梅でタオル生産を開始。タオルケット、バスタオル、シーツ、浴衣地など新たな分野の開発・生産を行った。タオル地をつかってタオル以外の商品をデザインするなども試みも行われた。

青梅織物工業協同組合設立
青梅織物工業協同組合設立

1964年 東京オリンピック(昭和39年)

1965年 都立繊維試験場青梅分場の移転

都立繊維試験場青梅分場が現在の青梅市千ヶ瀬の庁舎に移転

1974 高品質タオルの生産

細い糸を密度濃く丁寧に織り上げる絹織物特有の高度な技術と、秩父山系の伏流水を使った染色技術を利用した、タオルの生産が青梅の一企業によって始まり、その品質の高さが有名になる。製造工程において蛍光増白剤・塩素系薬剤・柔軟剤は使用していないため、コットン本来の風合いを直接肌で体感することができることと、その吸水性の高さが特徴。全行程を一貫した高水準で維持管理し、会社の品質基準を満たした商品だけを届けている。(ホットマン株式会社)

コットン 高品質タオル

1984 多様な織物生産時代

タオルを主体とした幅広織物、その他縫製加工をした寝装、インテリア、リビングなどの二次製品と伝統の夜具地、浴衣地などの小幅織物の生産を行う

1985 シェニール織の生産
(昭和 60 年 -)

シェニール織

ドイツの老舗シェニール企業「アルパロー社」の技術と設備のすべてを青梅に移転し「ホットマンシェニール」として誕生。企画から色の配合、染色、織り、仕上げまで全ての工程を自社工場で一貫してつくり上げている。厳選した糸を使用し、色落ちに強いスレン染料で染色してつくり上げたモール状のシェニール糸を、繊細な手織りで一本一本丁寧に織り込んでいく。繊細な神経を要する作業のため、一日に織れるのは4メートルに過ぎない貴重な織物である。(ホットマン ファクトリーショップ)

1988年

バブル景気ピーク(昭和63年)、富岡製糸場、操業停止

1989 天然藍染・青梅縞の復活

藍染工房「壺草苑」

江戸時代と同じ、化学薬品を一切使用せず自然界からとれる原料だけを使用する方法(天然藍灰汁醗酵建) の藍染工房が青梅の染物会社によって復活される。現在この技法が用いられる藍染は、日本全体の数%と言われており、時代に流されず400年前と同じ時間と手間を注ぎ染め上げた美しい藍の色は、世界からも注目を浴びる。また、その技術を生かし、明治に途絶えてしまった青梅嶋を当時の手法を再現し復活させるなど、青梅の織物歴史の保全に活躍している。(藍染工房 壺草苑)

1999 青梅夜具地 生産終了
(1926-1999)

大正終わり頃から昭和にかけて生産が開始された青梅夜具地。暮らしの必需品として庶民の生活に長く根付いていたが、ナイロン、ポリエステル、アクリルなどの新繊維の実用化や、昭和40年代に入り、生活の洋風化が進み、次第に衰退していく。そして1999年に青梅夜具地の生産はほぼ終わりをとげた。

2000 青梅織物工業協同組合
旧発券倉庫の再生活用

梅織物工業協同組合 旧発券倉庫(現 繭蔵)

大正末期の建築当時にはモダンな哀歓として人気を博し、また防火対策として様々な建築物に使われた大谷石の外壁の重厚な蔵づくりの旧発券倉庫は昭和40頃まで利用されたのち、未活用となっていた。平成12年より青梅在住のデザイナー(テナントオーナー)によって内部の全面的な改修を行い、1階をレストラン、2階をギャラリーとして再生利用された。大きな梁と温度変化に強い内部の漆喰はそのままに、倉庫につけられていた大きな庇を外し、ロータリー部分を少しずつ緑化し、豊かな緑を育てあげた。身近に感じる織物建築として親しまれている。(繭蔵)

2002 青青梅織物工業協同組合
旧織物加工工場の再生活用

昭和11年に建築された、木造平屋建ての加工工場は北側採光のノコギリ屋根が特徴である。平成14年に部分的に改修が行われ、南側を6ブースの貸アトリエとして作家等に提供し、北側は当時の面影を残すレンタルスペースとして組合が管理している。(Sakura Factory)

Sakura Factory Sakura Factory

2006 青梅織物工業協同組合
旧都立繊維試験場の再生活用

BOX KI・O・KU

昭和7年に組合設立と同時に移築された旧都立繊維試験工場を平成18年にJR東日本文化財団の補助を受け全面改修し、今は「BOX KI・O・KU」という名前のレンタルスペースとして利用され、イベント会場やロケ撮影などに活用されている。設立当時の外壁の青色が再現された洋風建築が特徴。

2007 青梅駅周辺景観形成地区の指定

平成16年に定められた青梅市の「青梅市の美しい風景を育む条例」をもとに、平成19年に青梅織物工業協同組合敷地を含む西分町の地区も「青梅駅周辺景観形成地区」の「青梅宿地区」として指定された。江戸後期から昭和初期までに建築されたまちの歴史・文化・産業と密接なかかわりを持つ多様な建物がある地区として、良好な街並みの形成を誘導するため、積極的に修景整備を図る必要性が認められた。

2009 青梅織物工業協同組合
旧女子更衣室の再生活用

青梅織物工業協同組合 旧女子更衣室からの眺め

昔は沢山の女工さんが工場で働いていたので、敷地内に女工さん用の更衣室がある。平成21年より徐々に改修されて、花の里工房ひまわりという障碍者の方の自立支援施設として利用されている。かつては2階の半分が畳、半分がロッカースペースとなっており、畳部分を使って、お花やお茶などを習うなどしていたようである。いわゆる「女工さん」の辛く暗いイメージとは違って、大変裕福な生活を送っていたといわれている。改修にあたって増築や2階部分は床張りにするなど建築そのものに当時の面影はあまり残っていないが、下駄箱などわずかに残る設備品から当時を思い起こすことができる。また、2階の窓から多摩川方向への眺望は青梅織物工業組合随一の眺望で、当時から変わらぬ眺めといえる。

2011年東日本大震災(平成23年)

2012年 富岡製糸場が世界遺産登録

2014 青梅織物工業協同組合
旧ボイラー室の再生活用

青梅織物工業協同組合 旧ボイラー室 現東京ペレット

糊付け作業や洗濯の動力源であった旧ボイラー室は長いこと活用されず倉庫として眠っていたが、同じ「火」という共通点がある木質ペレットストーブの企業によって平成26年に改修されて、ショウルームとして再生活用されている。当該建物は昭和30年の敷地写真にはないため、それ以降に建てられたものだと考えられている。(Tokyopellet)

2015 青梅織物建築が青梅市景観形成重要資源に指定

平成26年2月、青梅織物工業協同組合の旧織物加工工場(Sakura Factory) 、旧発券倉庫(繭蔵)、旧繊維試験工場(BOX KI・O・KU)の3棟が青梅市の景観形成重要資源に指定された。

現在 テキスタイルのまち青梅へ

織物の一大産地として栄えた青梅は、服地やシーツなどの製造を経て、現在はタオル生産や工房、個人作家の活動が盛んである。「青梅」と名の付く織物の生産は行われなくなったものの、豊かな自然に育まれた染色技術、織技術は今なお継承され「テキスタイル(布)のまち」として新たな発展を遂げようとしている。

資源として残るノコギリ屋根の工場跡など織物建築もその魅力を見いだされ、様々な形に再生・利用が始まったほか、歴史の中に埋もれてしまった技術や生地の保全活動、若手作家の支援を行う団体も設立された。青梅は、織物の歴史を継承しつつ、若いクリエイターや街中の支援者たちとともに新たな織物文化創造へ向けて取り組んでいる。

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「これから」の青梅の街は?
現在、青梅ではテキスタイルに関連するイベントや若手の支援等、「これから」を作る為の意欲的な活動が行われています。 先人達の経験や歴史から学び、新しい「これから」を作る。「これから」の事は誰にもわかりません。 ただ、私たちはワクワクとした気持ちと共に「これから」に向かって行きます。

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